2019/08/10 09:10


ジェームズは、何が何だか分からず放心状態のまま恐る恐る木箱の蓋を開けた。


木箱の中身が現れた瞬間、

なぜかジェームズの目から涙が溢れ出し、それはひねったまま戻らない蛇口の水のように流れ続け、

止めようがなかった。


箱の中には、

ジェームズと刻印された古びた包丁が横たわっていたのだ。


それは、

昔、女手一つで育ててくれた母が、なけなしのお金をかき集めて、料理人の見習いになったばかりのジェームズにプレゼントしたものだった。


そんなジェームズにとってかけがえのない包丁を手に無我夢中で練習に励み、何度も指を切りながらも、ただひたむきに腕を上げることに邁進していた若かりし頃の姿が蘇ってきた。


ジェームズは、

「なぜだ、これは数年まえに、歯が折れてしまい、もう捨てたはずだ。」

「なぜここに?いったいどうなっているんだ!?」

「もういい加減にしてくれ。」

と叫び、受け取った財布を手に、

走り出した。


元来た螺旋階段の方へ駆け出し、地上に舞い戻り、

既に薄暗くなりだし夕焼けた道を、ただ全力で走り抜けた。


何かを振り切るかのように、ただただ全力で手足を振りながら駆け抜けた。


何が起こっているのか

全く分からない。

涙はまだ止まる気配すらない。


ただ、

なぜか通り過ぎる風は気持ちよく、

風に揺れる木々を覆う葉はキラキラと美しく、街の人々の話し声に温もりを感じた。

鼓動の速まりが心地良くさえ感じだしていた。


久しぶりのようでいて、

初めての感覚に包まれていることにジェームズは気付きだしていた。

力の漲りはとどまることを知らぬかのように溢れ出し、

そのまま一駅先のレストランまで走り去っていった。


その後、ジェームズのレストランは休店状態が続き、ロンドンの街でジェームズの姿を見たものは誰一人としていなかった。


そして数ヶ月たった後、

人知れずジェームズのレストランのあかりが、ひっそりと灯った。


その後、

街中に瞬く間に、

流星の如く"忘れられた名店"の復活の噂が駆け巡るには時間がかからなかった。


活気に溢れる厨房の中心で輝くジェームズの姿がそこにはあった。

完璧に整理された厨房の中には、若かりしジェームズのように直向きに努力する見習い達が活気を生み。

皿に乗る料理は活き活きとした表情を見せていた。


数日後のある朝、

ジェームズは、あの日の不思議な出来事をもう一度確かめる為に、ウサギの人形サミーに、再び会いに行った。



忘れ物収容所の窓口の向こうには、

ジェームズの説明を聞くやいなや、まるで不審者を見るような眼差しで睨みつける"普通の人間"の管理人がそこにいるだけで、サミーではなかった。


ジェームズは、

無言でゆっくりと地下からの階段を駆け上がり、

ポケットから取り出した、Basicアートウォレットを見つめ、微かに笑みを浮かべながらポケットにしまった。

そして、

あの出来事をこれからも忘れないようにと、そっと胸の奥にしまい。


ロンドン有数であるジェームズの三ツ星レストランへゆっくりと走り去った。